妄言日記

思ったことを気ままに書き連ねます

劣等感



自分を含め、青年の特徴として心の振れ幅が他の世代と比べて大きい、という点は言えると思う。若者特有の馬鹿騒ぎや、他人には手がつけられないような落ち込みも、こうした感受性の豊かさ・一オクターブ高い感じがプラスマイナスの両面に働いた結果だろう。

 そうした意味でいわゆる陰キャラ、陽キャラ、という一見下らない言葉はある種言い得て妙だと思う。陰陽どちらに振れることもあり、一概には割り切れないが、性格としてどちらかに気持ちが触れやすいというのは確かにある。(しかしこういう言葉を使う人が持つような陽=良い、価値あり・陰=無価値、気持ち悪い、という価値観はあまりに浅いと思う。)

 さて、そんな青年の劣等感を刺激する季節である。まあ別にクリスマスやバレンタインのある冬を除いても、春夏などもそうしたイベントには困らないが。そうした機会は、自身が持たざる者、劣れる者といっそう意識させ、青年の心に虚無感をもたらすが、私は上に少し述べたとおり、陽キャラといわれる人々、青春のシンボルかのようなものを持つ者が良く、そうでない人々が無価値とはとても思えない。これは思いつきでなくそれなりの挫折や抑うつの経験を経て書いているつもりだが、以下にこう思う理由を挙げたい。

一、人生が辛く醜いからこそ、それを捨てずに生きようとする意思や感情はその人しか持ち得ない美徳である(これは感情や美徳以外にも、外見の話にも広げて美しくはないことを認めた美しさということも言えると思う)

二、 自分の劣等感や挫折の経験を通して、自分がどれだけ嫌な人間かという正当化のできない事実に向き合える(そして、自分の弱さを認めた人にのみ持ち得る人への優しさがあると思う)

 まだ言いたいことはあるが、一般論にするにはうまく形にならないため、こんなところまでにしておく。思うに、~とは、といった風に一般論めいたことを書くとき、その根拠は誰しも個人的な体験から完全には抜け出せないため、いかに本質を見て押し広げるか、あるいは他人の経験を借用するか、しかないだろうが、ブログというのはもう少し個人的な話に徹するのに向く場所か。


ブログと日記の立ち位置

 ブログ開設にあたって

 

ブログというものは、微妙な立ち位置にあると思う。インターネットにある程度まとまったことを書こうとしたとき、かつてはブログが主流だったが、各種SNS(特にツイッター)の普及でその役割は確実に薄れた。これは私の敬愛する漫画家平野耕太氏のブログが以下の文章を載せた記事で更新が終わっていることなどが象徴的だ。

 

ツイッター始めました。

すげえ楽。
ブログより楽。
遥かに楽。

でも多分、弊害もあるんでブログは辞めません
長駄文とか写真貼れないし。


 では便利な日記のように使えるツイッターを置いてブログを書く意義とは何か。それは、人に気兼ねなく書き散らすことができる、という点だろう。
と、ここまで読んでふと一部の読者は思うかもしれない。それは個人で書く日記と同じではないかと。しかし、自分の切実な思いを日記に書き散らしたことのある人は理解してもらえると思うが、日記に書かれる人間の本心や,夜中に思い出して叫びたくなるような思い出はとても人に見せられるようなシロモノではない。それは多くの文学者が死後に自身の日記やメモ書きの焼却を遺族に固く命じた逸話からも知られようものだ。一例に、これまた私の尊敬する作家サマセット・モームの自伝的エッセイから一文を引きたい。
 
 私自身について言えば、大多数の人よりも良くも悪くもない人間だと心得ているのだが、もし生涯でなしたすべての行為と、心に浮かんだすべての怨念とを書き記したとするならば、世間は私を邪悪な怪物と思うことだろう。 『サミング・アップ』16章
 
 つまりこのブログは、日記に書くほど邪悪で赤裸々な話題を避けつつ、ツイッターで垂れ流すには忍びない思い付きや妄言を書き残し、あわよくば読者の感想を拝見したいというスタンスだ。
 やや語り口が硬くなってしまったが、下らない話、や躁的軽薄といった態度の中にも何かくみ取るものがある、と信じてもいるので、無骨で無精者なりにかるーく書いていきたい。