ブログと日記の立ち位置
ブログ開設にあたって
ブログというものは、微妙な立ち位置にあると思う。インターネットにある程度まとまったことを書こうとしたとき、かつてはブログが主流だったが、各種SNS(特にツイッター)の普及でその役割は確実に薄れた。これは私の敬愛する漫画家平野耕太氏のブログが以下の文章を載せた記事で更新が終わっていることなどが象徴的だ。
ツイッター始めました。
すげえ楽。
ブログより楽。
遥かに楽。
でも多分、弊害もあるんでブログは辞めません
長駄文とか写真貼れないし。
では便利な日記のように使えるツイッターを置いてブログを書く意義とは何か。それは、人に気兼ねなく書き散らすことができる、という点だろう。
と、ここまで読んでふと一部の読者は思うかもしれない。それは個人で書く日記と同じではないかと。しかし、自分の切実な思いを日記に書き散らしたことのある人は理解してもらえると思うが、日記に書かれる人間の本心や,夜中に思い出して叫びたくなるような思い出はとても人に見せられるようなシロモノではない。それは多くの文学者が死後に自身の日記やメモ書きの焼却を遺族に固く命じた逸話からも知られようものだ。一例に、これまた私の尊敬する作家サマセット・モームの自伝的エッセイから一文を引きたい。
私自身について言えば、大多数の人よりも良くも悪くもない人間だと心得ているのだが、もし生涯でなしたすべての行為と、心に浮かんだすべての怨念とを書き記したとするならば、世間は私を邪悪な怪物と思うことだろう。 『サミング・アップ』16章
つまりこのブログは、日記に書くほど邪悪で赤裸々な話題を避けつつ、ツイッターで垂れ流すには忍びない思い付きや妄言を書き残し、あわよくば読者の感想を拝見したいというスタンスだ。
やや語り口が硬くなってしまったが、下らない話、や躁的軽薄といった態度の中にも何かくみ取るものがある、と信じてもいるので、無骨で無精者なりにかるーく書いていきたい。